怨霊慰撫
高倉天皇の后になっていた次女・徳子の懐妊を知った平清盛は、 「皇子の誕生あれば」と喜び、高僧に命じて皇子の誕生と安産を祈 らせます。しかし、着帯もすぎ、産み月が近づくにつれ、徳子はお 産の苦しみに寝込んでしまいました。 そこで、清盛は「身体の弱っているときには、物の怪(もののけ) にとりつかれてしまう」と考え、「生き霊・死霊」の慰霊のために 大赦(たいしゃ)をおこない、多くの罪人を放免します。 しかし、この大赦の中に、熊野権現を信仰しなかった俊寛僧都の 名はなく、島に迎えの船が来たときも、藤原成経・平康頼の二人だ けが、迎えの船に乗ることが許されたのです。 一人残された俊寛僧都は、嘆き悲しみ、せめて九州迄乗せてほし いと、訴えましたが聞き入れられず、島に取り残されたのです。