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経緯

1985年に新宮や本宮、熊野川町、那智勝浦町等の様々な職業を持った青年有志が集まり、青年熊野圏会議なるものを結成した事が、発端となり、94年に発展的に熊野フィールドミュージアム委員会という名称に移行致しました。

「熊野文化の杜会議」から

現在の私達の活動の発端は、日本文化デザイン会議’88熊野開催の為に企画準備のグループをつくったことからでした。
'88年、日本文化デザイン会議の際には、私達の側のフォーラムとして、北京の気功大学の教授をお呼びし、コーディネーターに草柳大蔵氏という顔ぶれで、”心と身体のよみがえり”というテーマを掲げました。

2年目は、故山本 七平氏、環境問題と科学技術の融合・共生を唱える合田 周平氏、歩く百科辞典・永畑 恭介氏、毎年熊野で合宿を開催している白虎社の大須賀勇氏、それに脱工業化社会の工芸地場産業の指導を実践されている秋岡 芳夫氏等をお招きし、地元の講師とともに”熊野の国づくり・人づくり・モノづくり”を題として開きました。

第3回は、プレイベントとして、全米でリゾートと文化が最もマッチした町として国際的に注目されているアスペン市長に来新頂き懇談会を持ち、その後、”人と自然の共生の地・熊野”というテーマで、イギリスで長年自然環境にやさしいエネルギーの開発と生活様式を研究実践していることで名高い「代替技術センター」のロジャー・ケリー代表と梅原猛氏、それに前年の合田 周平氏等に加え、地元で実際に熊野の自然との共生を実践している人たちを交えて開催いたしました。

そして、4年目には、”地の力”をテーマに、新宮出身で現在大妻女子短大講師の榎本 千賀氏に熊野曼荼羅の絵説きについてお話を頂き、又国際日本文化研究センターの山折 哲雄先生においで願い、熊野の「地の力」について、ルルドやラージギルの心身の神癒の地の例を挙げて、新宮、本宮、那智のそれぞれに違った力の存在とその可能性を国際的な視野からお話頂きました。

そして92年のテーマは、”癒しの郷(くに)熊野”として開催いたしました。一見あまりにも広く深すぎて、掴みどころがないように見える熊野文化、その上で、あえて本年は「癒し」という切り口から捉え、この地の将来への一つの可能性を導きだせたらと願いからの企画でした。

'93年、このような5年間にわたる一連の活動を終了し、次なる一歩を踏み出す前に、今一度私達が立っている足下を見直してみようと、様々な分析と方向性を探る作業を開始いたしました。
 


「様々な分析と方向性への試行」

世界が激動と歴史的な大きな価値の転換期の渦中にある現在、もう一度ここ熊野がその悠久の歴史の中で培い育んで来たものはなんだったのか、又逆にその中で、近々私達が失ってしまったものは何だったのかということを、掘り起こし検証するために、外部からの講師という鏡を通じて、この熊野の地と私達自身の姿を映し出す試みが92年までした。

ここに住む私達にとって、とかく「熊野」という名前だけが一人歩きをしているかのようにも見え、熊野から果たして、世界に通じる普遍性を引き出し、発信することができるのかどうか、私達の子供や孫達が本当に誇りや愛着を持ってこの地に住み続けることができるかどうかなど、その過去、現在、未来を遠望する中で、この地に住む私達の果たすべき役割が昨今ほど問われている時は無いように思えてなりませんでした。

そこでグローバルな視点から地域を見たときに、世界では、未だ新宮市の全人口を上回る子供達が、一日毎に餓死しているという状況に比べ、日本は、確かに物質的には、その様な国の人達からすれば垂涎の豊さを達成したと言えましょう。開発途上国と呼ばれる国々が、日本の経済成長に注目し、そろって多くの留学生を送って来た所以でもありましょう。
しかし自国へ戻ったその留学生達に、高い割り合いで日本ぎらいが見られると言う報告もある中で、それぞれの国の伝統文化にもう一度立ち返ろうという動きが起こり始めたことを多くの識者が指摘しています。一体彼らは、日本で何を見たのでしょうか。私達は、物質的な価値一辺倒の成長を目指す過程で、彼らがまだ保持している何かを失っていったのかも知れません。

身体と心、そして社会という関わりについて見回すと、現在都市周辺に住む人々の半数あまりが「病気ではない。けれど健康だとも言えない」と訴え、又昭和62年に比べ精神病収容者数が12万から36万人、実に約3倍に増え、過労死に至らないまでも慢性疲労症候群が蔓延している。
忙しいスケジュールをこなさなければならなくなった子供達は、テレビゲームの疑似体験に熱中し、行き場の無いエネルギーは理由の無い、いじめとなって表出する。
一生懸命働き続け、ある日定年を迎えてみると、イキイキとやれるものを何も持っていないことに気づき、愕然とする濡れ落ち葉と呼ばれる人々。誰からも必要だと思われていないと思っている一人暮らしの老人達。お金よりも何よりも大事だと思っている自分の命。その命が尽きるとき、生きて来たあかしや死の尊厳など思うひまもなく、まるで精神は存在しない機械の如く、体中穴だらけ管だらけになって死んで行かなければならない西洋医学一辺倒の病院、しかしながら未だ死の定義に揺れている社会。巷では、生きがいや心の安定を求め新宗教、新新宗教が繁栄し、日本の公表総信者数は人口の数倍に達するという。留学生達は、日本の病んでいる部分、それもかなり重症な部分を見たのかもしれません。
そんな中で、ここ熊野は一体何を持っているのでしょうか。この疑問に様々な切り口が上がりましたが、広大無辺と謡われた如くに、出せば出すほど「群盲、象を撫ぐ」の感を免れないような気が致しました。あえてその時のものをあげれば(勝手な解釈は許して頂くとして)
かつて傷ついた者や、敗者を貴賎を問わずその内深く受け入れた地としてのイメージ。
小栗説話に代表されるよみがえり信仰。
イザナギ神話の黄泉返り。
徐福伝説の蓬莱の仙薬の地。
ものをはぐくみ、守り育てる子宮のような胎蔵界と位置づけられた熊野。
何かを求めて難行苦行の果ての蟻の熊野詣。そして当時の死生感の意味を説き謡った熊野比丘・比丘尼。
この地で自己の南無阿彌陀仏を感得し、遊行を始めた一遍上人。
日本の基層文化・源境と指摘される土地。
人類が最も健康的に自然と共生する能力を充実させていたとされる縄文文化・森林文化の地。
三全総に国土軸接近を計れなかったが為に残る豊かな自然。
時間的な距離・歴史的な経緯によって都市部からは異境の地と映る点。
南方熊楠が粘菌の研究の中で、南方曼荼羅を完成させていった土地。
森林浴の森があり、温泉に恵まれた土地。等々際限無いほどでした。

しかし新宮市に住むものの大半にとって日常の生活のレベルでは、これらはまったく感知しえない事柄になってしまっているということも事実のような気が致します。
このような現状を踏まえたうえで、貴重な資源を今後私達は、どのように活かして行ったら良いのかということが私達の課題でした。

 




「癒しの郷(くに)熊野、自己実現の土地熊野へ」

山折先生からこんなお話を頂きました。フランスのルルドを例にとり、「マリア信仰を通じて幾多の病を癒して来た聖地に、現在では近代的な西洋医学の病院と心理カウンセリングの病院、そして信仰治療の施設を併設し多くの人が近代の巡礼の地として訪れている。
日本では、このように土地の力に根差した全人的な癒しの場というものが皆無であり、熊野は、最もその可能性を秘めた土地だ。海、川、山の自然の気に根差し、特異な文化を醸成してきた熊野が、ルルドのような信仰治療、精神治療、そして東洋と西洋医療を融合した全人的な癒しの場となる事ができるよう願っております。」と。

身体と心、それに環境とは、密接不可分の関係にあると言っても過言ではありません。
身体と心にとって最も良い環境とは、豊かな自然はもちろんの事、長い時間かかって築いてきた、人間が人間らしく生き、又人間らしく死ぬことができる文化をも含むものとすれば、熊野は、身体と心、精神のエネルギーにとって大きな可能性を秘めている土地と言えます。
ただしそれには、今後ますます余暇時間が増大して行く中で、ただの物見遊山でない人々、ここへ来ることに、自分を見つめなおす、何か自己の生き甲斐の示唆をさがす、心とからだの病や、より豊かな感性への再生を願うなどはっきりとした目的意識を持った人々にだけ来てもらうといった、極端とも言える戦略もこの地の特色を再び発信する姿勢として必要であるという方向へ収束しつつありました。

そのような病み、傷ついた人達、あるいは熊野に畏敬を持って接する人々を前にしたとき、俄然心からの熊野ホスピタリティとも言うべき情が発揮されているのをここではよく見ることができます。そのような目的を持って訪れるものと、それを迎えるものとの心からの交流の積み重ねが、自己実現の土地としての機能を増幅し、良循環の中にこの地に対する誇りと愛着とを醸成して行くのではないか、そのような仕組みを作って行くことこそが、私達の子供達や、孫達がこの土地に、誇りを持って住み続けることが出来るようにするための、私達が果たさなければならない責任だとの認識を共有するようになってまいりました。

その仕組みづくりに、活動の焦点をあわし、94年に国土庁の指定を受け「熊野フィールドミュージアム」構想を策定いたしました。

 


「熊野フィールドミュージアム構想」    

1.フィールドミュージアムの意義
 熊野フィールドミュージアムとは、当面想定している串本町から紀伊長島町に至る紀伊半島南端と本宮町、十津川村などの山間部を含めた和歌山・奈良・三重の三県にまたがる市町村全体をひとつの博物館とか美術館に見立てるという意味である。

 文字通り博物館など新たなハードの構築を目的にするのではなく、各地域に点在する既存あるいは潜在の資源に蘇りの地、希望の地としての「熊野の力」を基底として、その上に立脚してネットワーク構成を図り、共通テーマで一貫性を持たせ、他地域との差別化を鮮明にしていくソフトの構築を中心とする。

2.基本テーマ
(1) 統一テーマ−魂のふるさと熊野−
熊野フィールドミュージアムとは「来訪者と住む者が熊野という場所にひたり、かかわり合う中で魂の根源にふれるよう体験をし、本来の自己を発見する」ための仕組みである。

(2) 共通テーマ
  ●蘇り ●癒し ●本来の自己発見

 温泉や大自然のなかでの遊びも広い意味では「癒し」や「本来の自分への回帰」に結びつく。「蘇りの地」熊野では、たとえ動機が身体のリフレッシュであっても心のリフレッシュからやがて魂のリフレッシュへと進むという展開が可能であり、熊野からしか発信出来ないアピールになる。

(3) 構成要素となるテーマ
 「信仰」「自然」「遊び」、一見ばらばらに思える資源が熊野というフィルターを通した多様なテーマで収斂し、全体としてひとつのミュージアムを構成する。
 @縄文文化、A環太平洋黒潮文化圏、B蘇り、C自然との共生(自然の声との交流)、D森林文化、E日本の源郷、F本来の自分の発見、G癒し、H海洋文化、I自然信仰の世界、J子宮としての根源性(再生不可欠な、また自己の発生源として)、K薬草的生態資源

3.構 成
(1) 基本的な考え方
 熊野フィールド・ミュージアムは、日本文化の源流としての熊野の歴史的な価値の認識をベースにしながら、それを継承する地域の住民の文化や生活を尊重し、熊野を愛するすべての人々が心身ともに豊かな未来を創造するための学びと交流の場であり、それらを通して魂のふるさとを感じる場である。
 「山」と「海」に挟まれた「熊野」の地域における有形・無形の事象が熊野フィールド・ミュージアムの構成要素である。「生活」の範疇にはその歴史から現代生活のすべてが含まれる。
<空間と事象の基本的な認識>

(2) 対象地域
 和歌山県新宮市、東牟婁郡、串本町、中辺路町、三重県熊野市、尾鷲市、北・南牟婁郡、奈良県十津川村、下北山村、上北山村
(3) 内 容(案)
*体験コース、体験・学習メニュー
@ 熊野体験コース
 熊野は、様々な心を持つ人々を常に迎え入れてきた歴史を持っている。心に傷をもつ人も、無目的に立ち寄る人も受け入れる間口の広さが熊野の特徴である。しかしそうした人々が必ず魂の蘇りを感じて帰り、熊野ファンになり、リピーターになるようにするのが熊野フィールドミュージアムの目的である。
 このような目的に沿って、環境学習、農林業体験・スポーツ等を含む前述のテーマに対応した多様な熊野体験コースを設定する。また効果を高めるためにコース毎に土地に住む人を学芸員として「蘇りの先達」「癒しの修験者」「回帰への語り部」を配置する。


 


「熊野フィールドミュージアムデータベースの作成」

上記の構想を実現していく為の、導入を計るためにまず、95年より熊野を「癒し」「人と自然との共生」「自己再発見」の土地としての切り口から、マルチメディアデータベースを作成し、日本語、英語の2か国語でインターネットを通じて世界に流し始めました。又、毎年「熊野フィールドミュージアム体験ツアー」を開催しております。

又、99年3月、熊野博公式ホームページとの連動、和歌山大学、佐藤研究室の皆様といっしょに、フランス語版も追加いたしました。

2005年、世界遺産登録を機に、中国語版を追加いたしました。

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