一遍上人絵伝


村上水軍河野氏

十歳で母と死別した一遍は、一度出家したあと父の死によ り還俗し、故郷伊予に帰って家を継ぐのですが、再び出家修行に入 ることを決意します。絵は、修行のため故郷を後にする一遍と別れ を惜しみ見送る家族達です。一遍上人に同行するのは、超一・超二 ・念仏房・聖戒の四人。寒風の中を墨衣に身を包み旅立ちました。
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高野詣で

長野の善光寺等諸国を回り修行に勤めた一遍上人は、弘法 大師空海が開いた高野山に参拝し熊野へと向かうことになります。 絵は、卒塔婆が林立する参道を上った所にある空海の廟所・高野山 奥の院での参詣の様子。三間四方の宝形の建物が廟で、玉垣の手前 の礼堂の傍らで念仏を唱えているのが一遍上人です。
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熊野権現との出会

険しい熊野への道中で一遍は老僧に姿を変えた熊野の神に 出会い、信心のお札を渡そうとするのですが、拒否されてしまいま す。一遍は思い悩みながら熊野本宮大社に参拝し、そこで「一切衆 生の往生は、阿弥陀仏を信ずるところにあり、信・不信を選ばす、 浄・不浄を嫌わずお札を配るべし」という教えを授けられたといわれます。
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熊野本宮大社

熊野三山のひとつで、家津御子を主祭神とする神社です。 仏が神の姿になるという平安時代からの信仰形態では、本宮の本地 は阿弥陀如来。すべての人を、死後はすばらしい極楽へつれていっ てくれるのだと信じられていました。神社の近くには湯峰温泉があ り、薬効のある湯で身体を清らかにしてから、この神社に参拝する 習慣もありました。
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一遍上人の碑

写真は一遍上人の名号碑といわれる石碑で、「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれています。熊野地方には、このような名号碑が各地に残されています。


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熊野川の川下り


  熊野本宮大社から川沿いに山路を行けば険しく、難所が多い。この為熊野川を船で下って熊野速玉大社に参拝する。図は、そそり立つ絶壁の間を縫う急流を、棹一本で下る熊野川の川下りを描いています。



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熊野速玉大社

熊野三山のひとつで、「熊野速玉大神(くまのはやたまの おおかみ・イザナギ尊)を主神とする神社です。大社のある新宮市 の地名は、古代からあった神倉神社に対して新しくこの速玉大社が 建立されたことが由来となっています。 神仏習合の時代、この大 社の本地仏は薬師如来でしたから、「癒し」の神社でもあったわけ です。境内には多数の国宝を有する神宝館や佐藤春夫記念館もあり ます。
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熊野那智大社

全国の熊野神社の総本社として信仰されている熊野那智大 社は、上古は那智の瀧に熊野の神々12社をお祀りしていましたが、 今から1700年ほど前に、現在の地に社殿を築き遷しました。以来、 諸願成就・結びのお社として信仰されてきました。主神は、熊野夫 須美大神(くまのふすみのおおかみ)すなわち伊弉冉尊(いざなみ のみこと)で、上皇方の熊野詣には熊野牛王宝印に宝珠の神印を受 けたのです。

この熊野詣の先達を勤めた三山検校の支配下に熊野修験の 人々があり、那智の瀧を最終道場として多くの修験者が篭もって修 行に励んでいましたが、明治の淫祠の廃止・神仏判然令により廃仏 毀釈の運動が起こり、神社一辺となりました。この時多くの伝統行 事が失われましたが、その精神は根強く残り、今に至っています。

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