熊野の物語 観心十界曼荼羅


観心十界曼荼羅

日本中に散った熊野比丘尼が、信仰のたいせつさを説くと きに使った絵のひとつがこの熊野観心十界曼荼羅です。人生の心の 変転と、その状態を写す地獄の諸相を描いたもので、心のあやうさ と同時にその救いもまた心にあることを示しています


先頭へ戻る

熊野観心十界曼荼羅・人生の階段

人生を半円で描いています。人生はこの世に生を享ける事 により始まります。右下の館に若夫婦がおり、赤ん坊に湯を使わせ ています。この赤ん坊が人生の階段を登るごとに成長していくので す。その様子が半円に男女のペアとして描かれており、背後の木が 二人の成長を表しています。生まれた時は、梅、そして柳、桜、松、 杉、紅葉と続き、最後は枯れ木となります。比丘尼は、歌をまじえ ながら人生の変転を説いていくのです。


先頭へ戻る

地獄

絵の下の方には、仏教の説く地獄の様子が描かれています。 地獄には八熱地獄(火による八種類の罰)、八寒地獄(寒気による 八種類の苦痛)などさまざまな形態がありますが、ここでは、生前 の罪業に応じた業火による苦しみの世界が展開します。

「作りし罪が鬼となり、心の剣、身を責むる」(近松門左 衛門「びくに地ごくのえとき」)絵のなかの地獄は死語の世界です。 しかし、それは真の自分を見失い、徒労と苦悩の壁で自分を囲んで、 あがくほどに憎悪とねたみの深みへますます落ちていくという心の 状態を示すものでもあるのです。

絵の中央にあるのは、妻以外の女性に心を寄せて苦しめら れる男性、左下は艶然とほほえむ女性に引き寄せられるように、決 して上ることのできない針の山への突進を続ける男性の姿です。女 性である熊野比丘尼に説明されると、身の覚えのある男性は一層わ が身を恥じたことでしょう。

先頭へ戻る

餓鬼道

仏の心になれないものは、六種類の世界で生死をくり返す というのが「輪廻」。六種の最下層にあるのが地獄で、その次にこ の「餓鬼道」があります。ひたすらに飢え、あらゆるものを口に入 れようとするけれど、すべては炎と化してしまう世界です。 富と豊かさの追求に明け暮れる現代社会。はたして「餓鬼 道」ではないと自信を持っていいきれるでしょうか。
先頭へ戻る

「畜生道」と「修羅道」

餓鬼道の次に「畜生道」そして「修羅道」があります。畜 生道は他を顧みず、食欲や性欲などただ本能的な欲望だけで行動す る世界、修羅道は戦乱に終始する世界。絵では左下の動物群と中央 の戦の様子で表現されます。 人との共感など心の豊かさとは無縁の生き方、自己の存在 を不安とその裏返しの敵意によってしか確認できない生き方を象徴 しています。
先頭へ戻る

人間道

六種類の世界の五番目に位置するのが「人間道」、つまり われわれが今生きている世界です。修羅までの世界に比べると、お だやかに表現される世界ですが、決して安心はできません。つねに 揺れ動く心によって、おだやかさは瞬時に地獄や畜生や餓鬼、修羅 に変化するからです。だからこそ、その苦悩に救いの手をさしのべ る地蔵菩薩が大きくひかえているのです。
先頭へ戻る

天上道

人間界の上にある「天上道」。輪廻の輪のなかでは最上で あり、富も名声も得てすべてに満ち足りた世界です。しかし、その すばらしい状態に執着を持ってしまうと、簡単に崩れる世界でもあ ると説かれます。豊かさに優越感を持つと地獄へ、執着から欲をふ くらませば畜生や餓鬼、あるいは修羅へ。天上道は心の天国にもっ とも近いけれども、まだ天国そのものではないのです。
先頭へ戻る

声聞(しょうもん)

「自分はなにものなのだ」「死とはどういうことだ」苦し み悩み抜いた末に、人生観が根底から変わる体験に遭遇することが あります。おそらく比丘尼たちはその体験の場として熊野をひろめ たのでしょう。そういう体験を経て、自分へのこだわりを捨てられ たとき、人は輪廻の輪から抜けることができます。 自我を捨て、 真理の声を聞こうとする状態という意味で「声聞」といいます。
先頭へ戻る

「緑覚から心の真の姿へ」

真理の教えに耳を傾け、すべての苦悩や迷いの原因から抜 け出した状態を「緑覚」といいます。悟りの境地です。この悟りを 極め、さらに周囲の人々にも分けようという段階に達したとき、本 来の心の姿になるというのが熊野観心十界曼荼羅による教えです。 すべては心の動きであり、それを浄化するのもまた心であ る。その白い円のなかに描かれる「心」の文字は、そういう意味な のでしょう。
先頭へ戻る



曼荼羅メニューへ戻る

物語メニューへ戻る

メインメニューへ戻る