鯨と共に

古来より熊野人は海との共生の生活文化を保持し続けて来ました。海からの恵みに畏怖と感謝を持ち、足ることを知って子や孫の代へと、その恵みと共に生きて行くすべを伝え続けて参りました。山そして海や川。古の熊野人にとって、ここでの生活そのものが自然との共生の歴史です。



東明崎の復元山見番所

勢子船による捕鯨が盛んだった当時、20名程いた山見方といわれる世襲制の人々がこの番所に交代で常駐し、捕鯨の作業全体を指揮していました。
山見方の役割りは、「鯨の発見とその種類の判別」「船の出動と位置確認」「網船の潮流測定結果による網場の決定」「鯨を追い込む役目の勢子船の誘導」「海上への資材補給を司る納屋船の出動指示」「販売、経営を司る支配所への状況報告」など、まさに捕鯨の総指令組織として機能していました。


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吉備真備漂着碑

東明崎、かつて牟婁の御崎と呼ばれ、それが太地崎、燈明崎となり、現在の東明崎に変わってまいりました。考謙天皇の御代、牟婁の御崎と呼ばれていた頃に遣唐副使として唐に渡っていた吉備真備(きびのまきび)が、帰途暴風雨に会い漂着したところからから、この碑が建てられています。

 
 

 

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山見跡と灯台

古式捕鯨が行なわれていた当時の山見跡。ここから常に沖合いに目をこらし、太地沖にある鯨の道を通る鯨を発見するための場所でした。古式捕鯨では、それぞれの役割りがはっきりと分かれ、 非常にシステマティックに組織が構成されていました。寛永十三年(1636年)10月3日。日本ではじめて鯨油を燃やす「行燈式燈明台」が建てられ、灯がともされた場所です。現在でも礎石が残っており、灯台自体は当時の資料を元に復元したものです。この灯台では海上にある船への伝達手段として、のろしを上げたり、様々なサインを示す旗を立てる「はいだて」も行なわれていました。鯨は、肉は食用、骨は道具や工芸品にされただけでなく、脂は灯火用としてここでも使われ、余すところ無く人々の生活の中に生かされていたのです。
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鯨方漂流人記念碑

明治11年(1878年)12月24日の鯨船漂流事故で 遭難した漂流人供養の碑。「お脊美子持ちを突き置いて、脊美の子 持ちを突き置いて、春は参ろぞ伊勢様へ」と太地鯨唄に歌われてき たように、母鯨は母性愛が強くて、子連れ鯨の場合には、子鯨から 捕れば、母鯨は逃げずに子鯨をかばうため、母鯨も容易に捕獲でき ました。事故前夜、太地鯨方頭領の太地角右衛門は、「明日、堺の 住吉神社に参りに行くが、往きは見逃して下さい」と脊美鯨の夢を 見たのですが、気にせずにおりました。しかし翌日その夢が現実と なり、百数十名の命が絶たれて、明治13年(1880年)には終 焉しました。それで、この事故は「脊美の子持ちは夢にも見るな」 という格言で残っております。
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捕鯨図

熊野地方の各地で捕鯨が盛んとなった結果、突き捕り捕鯨 法での捕獲対象としていたセミ鯨等が少なくなっていて、各鯨組も 収益を上げることが困難となっておりましたが、延宝5年(167 7年)、太地角右衛門頼治がクモの巣にかかったセミの様子にヒン トを得て、当時、捕獲が不可能とされた座頭鯨が多く回遊している ことに目をつけ、網掛け突き取り捕鯨法を開発したのでした。これ により、「太地角右衛門大金持ちよ、背戸で餅つく、表で碁打つ、 沖のど中で鯨打つ」と言われるくらい富を築いたのでした。
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鯨踊り

新宮市三輪崎地区で保存継承されている伝統芸能。古式捕 鯨の歴史を伝える貴重な文化資源です。
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古式捕鯨具

海山町に残っている古式捕鯨具。捕鯨の文化が熊野の海岸 全域にあったことの証です。


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二木島供養塔

二木島にある浅間神社の登り口にひっそりとたたずむ鯨の 供養碑。先人達の鯨を通じて自然への感謝と、生命への共感がこの ような供 養碑を今に残したのです。

熊野地方は、捕鯨発祥の地と言われ、熊野市内の二木島、 遊木、 磯崎、木本などの地には、鯨方と呼ばれる捕鯨集団があっ たと伝え られています。「鯨船定」と呼ばれる捕鯨規約は、この 二木島に保 存されていました。

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くじら博物館

ここ太地町立鯨の博物館では、訪れる人々がイルカとのふ れあいを通して、陸に上がった生き物と海にとどまった生き物との 交わりを体験することが出来ます。
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