癒しの収蔵品 - 温故



神像

「癒し」の中心ともいえる熊野三山の主神は、熊野本宮が「家津美 御子大神(けつみみこのおおかみ)」、速玉が「熊野速玉大神(く まのはやたまのおおかみ)」、那智が「夫須美神(ふすみのかみ)」 とされ、それぞれスサノオ尊、イザナギ尊、イザナミ尊をさしてい ます。写真は速玉大社収蔵になる平安期の神像ですが、他の二社も 必ずこの三神をおまつりしています。


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車塚

本宮湯峰温泉にある小さな石塚。浄瑠璃で有名な「小栗判官と照手姫」にまつわる遺 跡で、湯峰温泉で蘇生を果たした判官が、自分を乗せてきた車を埋めた場所がこの車 塚です。同温泉にはこのほかにも「壺湯」「力石」「不蒔の稲」など小栗由来の遺跡 が残っています。
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応照上人火定三昧跡

 女人高野と呼ばれる那智の妙法山阿弥陀寺に、古い時代の修行僧として「日本霊異記」に応照上人の事が出ています。那智山中に深く分け入り、人と接することを避け、お経を唱えひたすら修行に勤めていました。そして、その修行の為に、自らの身を焼き、火定入滅したのです。この火定跡が、妙法山阿弥陀寺の奥ににあります。
火定地とは、生きながらに身を焼き、弥陀の浄土へ往生することをいいます。応照上人はこの熊野に参り、那智山の上妙法山阿弥陀寺で日々法華経を唱え、修行に励んでいましたが、その求道と世の衆生を救う為に、穀類、塩等の一切の食物を断ち、松葉を食し、新しい紙法福を着、西方浄土を向いて諸仏に祈りながら、焼身して往生したと伝えられます。

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釈迦如来像

 妙法山の山頂にひっそりと建つ阿弥陀寺奥の院「浄土堂」。ちい さな堂のなかに、この釈迦如来が安置されています。平安時代の作 で、一本の立木をそのまま彫刻したと伝えられるこの像は、寺縁起 によると「唐僧・連寂上人が千日の修行のあと、この場所に安置し た」とされています。 阿弥陀寺本堂から浄土堂までは、山道を登 って約20分。誰に会うこともない林をたどっていると、昔からこ の山が霊魂の赴く場所であったという理由がわかるような気が致しま す。
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千手観音立像

 海の彼方の観音浄土を目指した補陀洛渡海に縁の深い寺が、那智勝浦町浜の宮の補陀洛山寺で、補陀洛山寺の御本尊がこの千手観音です。  那智の海から殉教の旅に出た渡海上人たちの目指した「補陀洛浄土」は、慈悲と救いの手をさしのべる観世音菩薩の浄土です。その浄土への出発点である那智湾の奥に建つ補陀洛山寺で渡海上人たちが住職として、しばしの時を過ごし修行に励んで、衆生救済をこの御本尊に祈願致しました。
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大日如来像

 大日如来は密教の根本を司る仏で、理の世界を象徴する胎蔵大日如来と智の世界を象徴する金剛界大日如来の二体で、宇宙のすべてをあらわすとされています。写真の大日像は、智拳印といわれる印を結んだ金剛界大日如来像で、天台密教の寺院である那智山青岸渡寺の密教大壇具中尊としてまつられています。
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尼将軍碑

鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻、北条政子は、頼朝の死後仏門に入り、 尼将軍と呼ばれていました。この北条政子が、熊野詣をしたときに 建てたと伝えられる供養碑であります。頼朝の伯母鳥居禅尼は熊野 別当に嫁いでいたために、鎌倉と熊野は深い関係がありました。 浜の宮より那智山に向かう途中に、荷坂越えと言う小さな峠があり、 この峠を越えたところに、尼将軍供養塔が建っています。源頼朝の 妻政子は、二位の禅尼あるいは尼将軍と呼ばれ、頼朝亡き後も実権 を握っていました。この政子・尼将軍が熊野詣をしたときに、頼朝 の為に建てたのがこの供養塔です。
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円座石

熊野那智大社を出て、大雲取越えの最大の難所「越前峠」を越え ると、熊野川町小口集落までは、長く急峻な下り坂が続きます。昔 の旅篭跡まで下りてきた頃、道端に奇妙な「梵字(ぼんじ)」を刻 んだ大きな「円座石」(わろうざいし)が目に止まります。熊野の 神様たちが座って談笑したところと言われます。3つの梵字は中央 が薬師、左は観音、右は阿弥陀を表現し、熊野三山をシンボライズ した遺物でもあります。 大雲取から熊野川町小口を経て、赤木川に掛かる吊り橋を渡り、船 の渡し場跡を横目に見ながらなだらかな道を登ると、比較的幅広い 石畳の道となります。女性的な歩きやすい石畳には、アカマツの根 が絡みつき、昔日の面影そのままにまっすぐに上を目指して続いて います。誰かがつぶやきました、「まるで、空中回廊を歩いている ようだ。!」
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延命寺の庚申

 那智勝浦町宇久井の延命寺山門内にある庚申塔は、 同町内でも特に古くから多くの信仰をあつめていまし た。 昔から、庚申の日の夜は寝てはいけないという民間信仰がありました。寝てしまうと、人間の身体に住む「尸(し)」と言う三匹の虫が、身体から抜け出して、天帝に庚申の日までに行った人間の悪事を伝え、人間は、天帝から罰を受けることになると信じられ、このため人々は庚申の日に集まり、庚申をまつり、一晩中起きて朝まで過ごし天帝に告げ口出来ないようにしたのです。この集まるところが庚申塔であり庚申堂です。
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熊野烏牛王宝印(くまのからすごおうほういん)
  

全国の社寺で頒布されている牛王宝印には、版木で刷ったものや手書きのものがあり、また書かれている文字も楷書であったり社寺ゆかりの鳥や動植物であったり様々です。熊野の牛王宝印は神使である八咫烏(やたがらす)の姿でもって神文[烏点文字(うてんもじ)という]を書いており、熊野三山三社とも烏の数が異なります。烏点文字の牛王宝印を烏牛王宝印、俗に「おからすさん」と言われております。  

 

 

 

 

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芦雪

応挙芦雪館

串本町にある臨済宗の古刹・無量寺境内に設けられた日本画の美術館です。 18世紀にこの寺を再興した僧・愚海の知己だった円山応挙が弟子の長沢芦 雪を熊野に派遣、その結果この地に多数の名画が残されました。 同館には、応挙の波上群仙図、枯松図、芦雪の龍虎図などが収蔵されてい ます。

 

岩水枯松図



つぼ湯
本宮町湯峰温泉の中央を流れる湯ノ谷川畔にある小さな共同浴場。 湯峰温泉は本宮大社へ参拝する人たちの湯垢離場として発展した温泉 で、このつぼ湯は当時の潔斎屋の形を今に伝えています。一度に大人 なら2人しか入れない小さな浴槽ですが、1日に7回湯の色が変化す るといわれています。


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