熊野の物語 -
熊野那智参詣宮曼荼羅
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癒しの熊野詣
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「蟻の熊野詣」といわれたほどの熊野三山のにぎわいの基をつくったのは、
全国の信者の家々を廻って熊野権現の教えをひろめ、
熊野山へ案内した「御師・先達・比丘・比丘尼」達でした。
中でも女性による女性の救済を目的に熊野信仰をひろめた熊野比丘尼たちは
他に類をみない存在でした。
彼女たちは、「浄・不浄をきらわず、貴賎にかかわらず、男女をとわず」
受け入れた熊野の神の教えを「熊野観心十界曼荼羅」・「那智参詣曼荼羅」
の二つの曼荼羅を持ち説いて廻ったのです。「熊野観心十界曼荼羅」では、
現世での行いが来世につながり、地獄にも落ちれば極楽にも行けると絵解きし、
現世利益・来世安穏のため熊野権現を信仰すべきであると、「那智参詣曼荼羅」
で参拝を説いたのです。
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補陀洛渡海
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熊野の海の彼方に、観音浄土である補陀洛山があると信じられ、
その補陀洛山に渡ることを補陀洛渡海といいます。
図の上左側の建物が補陀洛山寺で、住職が60歳になると補陀洛渡海をする風習
がありました。この図はその補陀洛渡海の様子を描いたものです。
大鳥居では、信者や僧達が別れを惜しんで合掌し、渡海船を見送っています。
海に浮かぶ帆掛船が渡海船で、四方に鳥居と垣を配した屋形の中に、
30日分の食料と灯火用の油を積み、11月頃の西風を待ち出発するのです。
外から釘打ちされ窓もない船中で一心にお経を唱えていると、
見送る信者達の願いと共に生きたまま仏の世界に往く事が出来ると
信じられていました。868年慶竜上人から1722年宥照上人までの850年間に
21名の渡海上人が、補陀洛山を目指したといいます。
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二の瀬橋
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那智川に架かる橋が二の瀬橋です。那智の熊野権現に参詣する人々は、
必ずこの橋のところで那智川に入り、身を清める潔を行います。
そして比丘尼からおはらいを受ける事により、身も心も清められ、
清浄なる神域に入る事が許されるのです。橋の手前の美しい女性は、
和泉式部で、この場所で清められ無事に参拝出来たと伝えられております。
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振架瀬橋
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振加瀬橋は、俗世間と那智権現の神域を振り分けるということからその名が
つけられています。この図は、那智の滝より流れ出た那智川が、木々に隠れて流れ、
この振加瀬橋のところで新客谷の流れと合流する部分です。
合流した流れの中でよりこつ然と現れる龍に乗った童子は、
那智の大神が姿を変えたもので、橋の上にいる修行を積んだ僧に、
力を付与しているところです。那智の大神の力を付与された僧は、
那智権現に参拝し、人々に教えを説きました。
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大門坂
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大門坂は那智大社の入り口になっていた坂で、今も杉木立のなかに
古い石畳の道が続きます。那智大社にまつる夫須美神の本地は、
現世の苦難の全てを救済してくれると信じられていた観音菩薩。
大社に隣接して観音霊場巡礼の出発地となっている青岸渡寺もあり、
まさに熊野が神仏習合の地であったことを実感します。
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那智瀧
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大門坂の仁王門を右に下りたところが、那智の大滝です。滝で修行する修験者の姿が見え、千手観音堂、拝殿、滝に打たれる文覚上人が描かれています。
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文覚上人
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文覚上人は、もとは遠藤盛遠(えんどう もりとう)と言い、上西門
院の侍でありました。ある時、発心を起こした遠藤盛遠は出家し文
覚と名前を改めます。文覚は熊野に参り、那智の権現に参篭したの
です。そして、「行(ぎょう)」の手始めに、けわしくて有名な那智
の滝にうたれようと、那智の滝に下りていきますが、季節は十二月
の半ば、一番寒い時でした。滝壷に入り首までつかり、不動明王の
呪文を唱えながら、一心に行に勤めますが、あまりの寒さに息絶え
ます。すると不動明王の御使矜羯羅(こんがら)・制たか(せいたか)
の二童子が現れて、滝壷をけがしてはならないと、文覚を引き上げ
て蘇生させます。生き返った文覚は、不動明王の守護により、無事
に二十一日の修行をおえる事が出来たのです。そして文覚は、那智
千日篭もりに始まり、大峰・葛城・富士等すべての行場をまわり、
修行したのです。
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那智の田楽舞とお木挽き
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熊野比丘尼は、全国をくまなく歩き、熊野権現の教えを広めると同時に、
御社殿の修復工事を行う為の浄財を集めて廻ります。そして集められた浄財により、
立派な御社殿、御堂は維持されていくのです。この図は、
その修復工事の為の木材を御社殿まで、信者達が引っ張って運んでいるところと、
それを喜んで那智の田楽、神楽を舞っているところを描いています。全国の信者達は、
苦しみのない常世の国、観音の浄土といわれる那智の熊野権現が立派に栄えれば、
自分たちも救われると喜んで浄財を納め、そこで行われる田楽舞や、
神楽舞の様子を比丘尼から聞き、思い描いたのです。
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上皇の参拝
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この図は、那智熊野権現の御本殿の前での参拝の様子です。
那智の大神から超自然的な力を付与された高僧が、34回も熊野詣をした
後白河上皇に加持をしているところです。那智の大滝の御利益に
延命長寿がありますが、歴代上皇の中で熊野詣をした上皇は、
60歳、70歳の長寿であり、熊野詣をなさらない上皇方は30歳前後で亡くなっています。
当時,4,50歳ぐらいが平均寿命であると考えると、大変な長寿だったのです。
高僧の横の大きな石はカラス石です。熊野のお使いであるカラスは、
ヤタガラスという3本足のカラスで、神武天皇を大和へ案内した後、
このカラス石に姿を隠したと伝えられています。
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妙法山
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山伏姿の先達がお参りをしている建物は、阿弥陀寺です。その横の五輪塔のそばに、
唐から来朝した応照上人の火定地があります。火定地とは、生きながらに身を焼き、
弥陀の浄土へ往生することをいいます。
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応照上人
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応照上人はこの熊野に参り、那智山の上妙法山阿弥陀寺で日々法華経を唱え、
修行に励んでいましたが、その求道と世の衆生を救う為に、穀類、
塩等の一切の食物を断ち、松葉を食し、新しい紙法福を着、
西方浄土を向いて諸仏に祈りながら、焼身して往生したのです。