癒しの収蔵品 - 神社


熊野本宮大社

悠久の歴史を誇る「熊野本宮大社」は、もともと熊野川の中洲に鎮座していましたが、1889年に本宮の地をおそった未曽有の大水害により流失し、再建にあたって130段の石段を登った山の中腹にある現在の地に遷されました。 流出する前の大社の建造物の規模は現在の約8倍とされていますから、いかに往時の社殿が壮大なものであったかが伺い知れます。 熊野本宮大社は、熊野速玉大社、熊野那智大社とともに熊野三山を構成し、全国熊野信仰の総本宮の位置を占めています。

熊野本宮大社は、崇神天皇65年(3世紀前半)に社殿が創建さ れたと伝えられ、家都御子神(けつみこのかみ=スサノオ)を主祭神 としています。

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大斎原(おおゆのはら)

熊野信仰の発祥地として有名な熊野本宮大社旧社地です。 音無川が熊野川に注ぎ込む同川の中州に位置し、全体的にこんもり とした森になっています。旧社殿は明治22年(1889)の大洪 水で流出しました。

 しかし、苔むした礎石や石垣が残っており、春は桜、秋は 紅葉が美しく、いまなお神聖感をたたえています。4月15日の例 大祭には、500メートル離れた現大社から大斎原まで、古式ゆか しく行列が渡御します。


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熊野那智大社

那智の滝の信仰から始まった熊野那智大社は、上古の昔は那智の滝に熊野の神々12社をおまつりしていましたが、今から1700年ほど前に現在の地に社殿を築き、以来、神と人、人と人とを結ぶ、また産(むす)ぶ、霊(むす)ぶ、諸願成就・結びのお社として信仰されてきました。

主神は、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)すなわち伊弉冉尊(いざ なみのみこと)で、上皇方の熊野詣には熊野牛王宝印に宝珠の神印を受けたといわれます。この熊野詣の先達を勤めた三山検校の支配下に熊野修験の人々がおり、那智の滝を最終道場として多くの修験者が修行に励んでいました。明治時代の廃止・神仏判然令によって神社一辺となり、多くの伝統行事が失われましたが、その精神は根強く残り、今に至って います。

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熊野速玉大社

熊野三山のひとつで、「熊野速玉大神(くまのはやたまの おおかみ・イザナギ尊)を主神とする神社です。大社のある新宮市 の地名は、古代からあった神倉神社に対して新しくこの速玉大社が 建立されたことが由来となっています。

神仏習合の時代、この 大社の本地仏は薬師如来でしたから、「癒し」の神社でもあったわ けです。

境内には多数の国宝を有する神宝館や佐藤春夫記念館もあ ります。

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玉置神社

奈良県十津川村の郷社「玉置神社」です。主要道路から遠く離れ た玉置山の頂上近くにあり、なんら俗化されていない霊的スポット としての希少価値で異彩を放っています。

今から約1800年もの昔、第10代崇神天皇の時代、悪 神退散祈願のために建立されたと言われる豪壮な社殿に佇むとき、 物質文明の矛盾で、最早どうしようもなくなった時代に、再び救世 のために顕現される神様が鎮座されるに違いないという確信のよう なものを感じることでしょう。 弘法大師(空海)は、修行のため「玉置神社」を訪れたと き、「ここは、世界の『気』の中心である!」と感嘆されたと言い ます。
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池神社

「池神社」は、元は辻堂と言うところにあり、手狭になっ たため、17世紀の初めに現在の場所に遷されました。21年ごと に改築され今日に到っています。「池神社」の名が示すとおり、水 に縁のある神社で、特に雨を司る神様として名高いのです。例大祭 は11月3日の文化の日。いつもは静寂につつまれている霊域が、 この日だけは人であふれます。

 

「池神社」の起こりとして次の言い伝えがあります。その 昔、笠捨山の麓に棲む大蛇が悪の限りを尽くして、旅の人や村人を 苦しめていることを知った「役の行者」が、この大蛇を退治しまし た。そして行者が下駄で踏みつけたところ、身体は三つにちぎれ、 頭と胴はそれぞれ、奈良「猿沢の池」、紀州・下市木へ飛んで行き その地で生き続け、胴体はそのまま明神池に残ったと言われていま す。
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南帝陵国王神社

南北朝時代、南朝の慶長天皇は北朝側の攻勢を受け、天の 川(十津川上流)にて落命されました。遺体は川に流されたものの、 下流の郷民は、必死の思いでその「御首」を川底から探し上げ、手 厚く葬ったということです。その御陵は「南帝陵」と称し、近くに この「国王神社」が建立されています。非業の死を遂げた我が帝を、 無念の思いでお祀りした郷民の心情が忍ばれます。
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花の窟

三重県、熊野市。ここにも熊野独特の巨岩信仰を代表する 霊的スポットがあります。「花の窟」神社。熊野灘に面した、高さ 56メートルの大岸壁の最下部に岩穴があり、その岩穴が祭祀の中 心となります。まわりに玉石を敷き詰めた他には小さな祭壇がある だけで、社殿も拝殿もない不思議な雰囲気を醸し出しています。波 の音が大岸壁に微妙に反響し、頭上から海の轟きが聞こえてくるマ カ不思議な体験ができます。
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三重県熊野市の大馬神社(夫婦杉)

境内には、夫婦になぞらえた一対の杉の巨木が立っていま す。伝説では、坂上田村麻呂に討伐されたという、まつろわぬ神、 多我丸のムクロを埋めたところと言われております。

また烏帽子岩にてその田村麻呂が出会った天女は、この大 馬神社の神の使いだったとも言われております。ニシキトベといい、 この多我丸といい、古来より熊野は、戦いに負け逆賊とされたもの 達をも包みこみ、地元で末長く祭り続けて来たようです。

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渚の宮

那智勝浦町浜の宮に鎮まる「渚の宮(なぎさのみや)」は、 那智山熊野権現の摂社で那智湾に臨む社としてこの名があり、熊野 九十九王子の一つとして栄えました。

熊野古道が田辺より海沿いの大辺路と山中を行く中辺路に 分かれ、再び交差する所が浜の宮です。此処より那智山までを那智 谷と言い、一月に那智山の麓、市野々より始まる各氏神の例大祭は、 渚の宮から各浦浦に続いて行きます。それぞれの氏神では祭りの後、 大的を射るお弓神事、獅子舞が奉納されます。この神事に参加でき るのは、那智川や那智湾で前夜水垢離をした若者だけです。この渚 の宮でも、寒中の那智湾で塩垢離した若者がその年の平安・五穀豊 穣を祈って奉仕するのです。

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三重県熊野市の大森神社

俗称「どぶろく祭り」で有名な神社で、神に備えるどぶろ くを作るための専用のたんぼを持った大森神社。祭り当日、お供え が終われば、参詣の人々に振る舞われ、夜を徹しての直会(なおら い)が神と人との陽気な笑い声と共に続きます。

正式な名称は「霜月祭り」で、その名の通り11月23日が例 祭日となっています。毎年10月15日が来ると仕込みを始めることに なっています。もろみを漉しとらない白く濁った独特のお酒である このどぶろくは、"モストリ、ハツゾエ、ナカゾエ、トドメ"と呼ば れる工程を経て、11月22日の早朝、水垢離(みずごり)をとって心身 を清めた"当人"によって準備されます。

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尾鷲神社

尾鷲駅から約500mほど海寄りの市街地にある神社。境内には周囲約10mの楠の巨木がそびえています。また、この神社には室町期に作られたとされる獅子頭が伝わっており、例祭である「ヤーヤ祭り」(2月)で使用されています。漁業の町でもある尾鷲。海とともに生きる人たちの心のさ さえになっているのがこの神社です。
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北山宮

約60年にわたった南北朝の争いの後半、劣勢にたった南朝側は北山荘に退き、北山・川上を中心に巻き返しを図ろうとしました。落ち延びてきた南朝の人々を、当時の北山郷人は歓迎し「北山宮」として丁重に迎えたのでした。現在の北山宮は、上北山村の山すそにひっそりとたたずみ、その姿を今に伝えています。
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阿須賀神社
   新宮駅の北東600m、熊野川岸にこんもりとそびえる蓬莱山を背に社殿があります。もとは熊野速玉大社の摂社で、祭神は熊野三所大神(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神)。境内には新宮市の歴史民俗資料館があるほか、弥生式土器の発掘にちなんで復元された竪穴式住居もあります。また、2月の御灯祭りでは、この阿須賀神社と速玉大社、妙心寺の3所に参拝してから神倉山へ向かうのが上り子の習わしになっています。


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