癒しの体験 ー 熊野古道を歩く(NO.1)
癒しの体験 ー 熊野古道を歩く(NO.2)
癒しの体験 ー 熊野古道を歩く(NO.3)
三重県熊野市の旧熊野街道(波多須の道)
今も残る熊野古道。波田須の伊勢路の石畳。
「熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈
悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず」と梁塵秘抄に謡われたよ
うに、険しい危険な道が多かったが、この道を一歩一歩みずからの
足で歩み、苦しさを乗り越えてこそ、再生の道につながると信じ、
古来多くの人々が歩んで来た道でした。
三重県熊野市の旧熊野街道(波多須の道)
また一方では「熊野へ参るには、何か苦しき修行者よ、安松姫松
五葉松、千里の浜」とも梁塵秘抄にあるように、いく土地ごとに、
心楽しむこともありました。より早く、より多く、より効率的にと
生きる現代の私達にとって、失ってしまったものを発見する道でも
あるのでしょう。
伊勢から熊野への巡礼道が「熊野街道」。その道中最大の難所だったのが
尾鷲市街の西にそびえる八鬼山越えです。
伊勢と熊野を結ぶ「熊野街道」の面影をもっとも色濃く残してい
るのが、尾鷲市の八鬼山峠。江戸時代にここを越えた旅人の道中日
記(尾鷲市・浜口禎也氏調べ)に「上り五十八丁、下り三十八丁。
聞きしに勝る難場なり」と書かれている山道です。
熊野の杉とは趣を異にする桧林の街道には昔の石積みや町石が多く残り、
とくに尾鷲市街側から峠頂上までのルートは往時そのままの姿を伝えていま
す。
写真は熊野フィールドミュージアムが主催した体験ツアーの1コマです。
八鬼山古道沿いには一丁ごとに「町石(ちょうせき)」が立ち、
行程の目安になっていました。これらの町石は伊勢神宮の御師(お
んし)によって奉納されたもので、すべて地蔵菩薩の形をとってい
ます。
また、町石のほかに峠越えの途中で行き倒れた巡礼の墓標や
供養碑なども残っており、そのひとつ「伊勢内宮清順上人供養碑」
は、永禄9年(1569)に建立された道中最古の石仏です。
八鬼山越えのきびしさをしばし忘れさせてくれるのが、ルートが尾根伝いになったときに広がる眼下の眺望です。太平洋側では静かな湾内にひっそりと息づくような九鬼の里、また尾鷲市方向では市街を越えはるかかなたに大台ケ原の最高峰・日出ケ岳が挑めます。
八鬼山山頂近くにある荒神堂。大宝3年(702)創建と伝えら
れる古刹で寺名は「日輪寺」。熊野詣が盛んだった頃は寺の周囲に
茶屋などもあり、西国三十三カ所の前札所としても信仰を集めてい
ました。 現在は無住ですが、定期的に行われる祭事にはご住職を
始め修験の修行者や信者たちが集まり、古式ののっとった儀式が営
まれています。
今の八鬼山を歩くと、町石はその間隔も立ち方もまちまちになっ
ています。これは、長い年月の間に風水害などによって散逸したも
のを郷土史家たちが広い集めて古道沿いに安置しなおしたものが多
いためなのです。
地蔵をよく見るとひとつひとつに「十五丁」な
どと距離が刻まれています。本来はその数の順番通りに一丁おきに
並んでいたのです。
八鬼山とは尾鷲市街をはさんで伊勢寄りに位置している峠越えの
街道が「馬越(まごせ)峠」です。ここに残る石畳は徳川吉宗が紀
州藩主だった時代に、街道補修工事の一環として築かれたもので、
とくに海山町側一里塚から夜泣き地蔵付近、峠から尾鷲側の桜地蔵
付近はほぼ江戸時代そのままの道を歩くことができます。 伊勢か
ら熊野をめざした人たちは、この峠を越えて尾鷲に入りさらに八鬼
山へと進んだのです。
海山町から尾鷲へと通じる熊野街道が「馬越(まごせ)峠」。今も古い石畳が残っています。
| 前のページへ | 体験メニューへ | メインメニューへ |