熊野の物語 平家と熊野

平清盛の熊野詣

「そもそも、平家かやうに繁昌せられけることを、いかにといふ に〔どういうわけかというと〕、熊野権現の御利生(ごりしょう)に てぞありける。〔熊野権現のご利益によるのであった〕」。 桓武天皇(かんむてんのう)から数えて九代の孫・平清盛が、父・ 平忠盛(たいらのただもり)より受け継いだ殿上人の地位をあしがが りに異例の出世を遂げたのは、熊野権現のご利益によってであると、 平家隆盛のことを話し、そのご利益とは、平清盛がまだそれほどの 地位でない、安芸守(あきのかみ)であったときに、伊勢より熊野詣 でをしようと船旅の途中、大きな鱸(すずき)が船に飛び込んできた これを清盛は、熊野権現よりの賜り物と、一族郎党で食べたことに より、熊野権現の力を得ることができたと言うのです。このことは 熊野水軍の力・熊野三党(くまのさんとう)[宇井・鈴木・榎本]の力 をも手に入れた事を暗示しています。
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鹿の谷

熊野権現のご利益で、平清盛の異例の出世とともに、平家一門の 栄耀栄華が始まったのですが、平家一門だけの繁栄は、他氏のねた みを受けることになり、「この一門にあらざらん者は人にあらず」 の言葉や、天皇・上皇に礼を失したした振る舞いに、上皇方の不満 も大きく、京の鹿の谷(ししのたに=ししがたに)にある、俊寛僧都 の山荘に、後白河上皇を始め、藤原成経、源成雅、俊寛僧都、平康 頼等多くの人々が集まり、平家打倒のはかりごとを、酒を酌みなが ら相談したのです。 瓶子(へいじ=銚子)の倒れるのを見て、平氏が倒れたと喜び、瓶子 を振り回し、首を折っては、平氏の首を取ったと騒いだことが、密 告により露見し、上皇を除き皆罪に問われたのです。
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喜界ケ島流罪

鹿の谷の謀議により、捕らわれ流罪になった中で、藤原成経・平 康 頼・俊寛僧都の三人は、薩摩[鹿児島]の南方海上にうかぶ喜界 ケ 島(きかいがしま)に流罪になりました。三人の中で成経・康頼 の 二人は、もともと熊野権現を信仰していたため、この島に熊野 三所権現を勧請(かんじょう)して、都に帰れるよう祈りましたが 一人俊寛だけは祈ろうとはしませんでした。成経・康頼の二人は 島の中を歩き回って、熊野に似た地形をさがし、滝を見つけると那 智大社、またあの峰は本宮、この峰は新宮、などといいながら、九 十九王子までを決め、康頼を先達に、毎日熊野詣での真似をして、 都に帰れることを願ったのです。
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卒塔婆流し

ある日、藤原成経・平康頼二人が、いつものように熊野詣でをし、 途中浜に出たとき、沖より流れてきた木の葉があり、見れば、熊野 権現のご神木である梛の木の葉でありました。虫の食った梛の葉を 拾い上げてよく見れば、虫食いの跡が、「ちはやぶる 神に祈りの しげければ などか都へ かへさざるべき(お前たちの、神への祈り が熱心であるから、必ず都へ帰してつかわそう)。」の和歌に読め、 おおいに元気づけられたのです。そして二人は、千本の卒塔婆に和 歌二首を、それぞれの名前ととも書き付け、祈りをこめて海に流し たのです。この千本の卒塔婆の一本が、安芸の宮島、厳島神社の浜 辺に流れ着き、それを康頼の知人の修行僧が拾い、康頼の妻のもと に届けたのです。このことが都中に広まり、流人(るにん)の歌とし て、人々に口ずさまれました。そして清盛の知るところとなり、清 盛の怒りも、少しやわらいだのです。
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怨霊慰撫

高倉天皇の后になっていた次女・徳子の懐妊を知った平清盛は、 「皇子の誕生あれば」と喜び、高僧に命じて皇子の誕生と安産を祈 らせます。しかし、着帯もすぎ、産み月が近づくにつれ、徳子はお 産の苦しみに寝込んでしまいました。 そこで、清盛は「身体の弱っているときには、物の怪(もののけ) にとりつかれてしまう」と考え、「生き霊・死霊」の慰霊のために 大赦(たいしゃ)をおこない、多くの罪人を放免します。 しかし、この大赦の中に、熊野権現を信仰しなかった俊寛僧都の 名はなく、島に迎えの船が来たときも、藤原成経・平康頼の二人だ けが、迎えの船に乗ることが許されたのです。 一人残された俊寛僧都は、嘆き悲しみ、せめて九州迄乗せてほし いと、訴えましたが聞き入れられず、島に取り残されたのです。
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俊寛の死

俊寛僧都が、法勝寺の執行(しぎょう)であった頃、僧都に仕えて いた有王は、主人俊寛が流罪になってから、毎日嘆き悲しんでいま したが、ただ都にいて嘆いているだけでは、いつまでも苦しいだけ と、鬼界の島に渡る決心をしました。 島に渡った有王が見たのは、都の乞食でさえも、これ程までのこ とはないと思う程痩せ衰え、手には藻屑と漁師から貰った魚を持ち、 よろよろと歩く主人の姿でした。 有王から、一族の者皆捕らわれて殺され、逃れた妻も、心労のた めか亡くなってしまったと聞いた俊寛は、生きて都に帰る気持ちを なくし、断食して、有王が島に来て三十三日目に、亡くなりました。 俊寛を庵とともに荼毘に付し、遺骨を首に掛けて都に帰った有王 は、その遺骨を高野山・奥の院におさめたあと、蓮華谷で法師とな り、高野聖として諸国を廻り、主人の菩提を弔ったということです。
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平重盛の熊野詣で

俊寛僧都が、喜界の島にて他界した年[治承3年=1179年] の5月12 日の午頃(ひるころ)、都を辻風[突風]が襲い、多く の人が死に、 牛馬等は全滅の有り様で、まるで地獄で吹く業風(ご つふう=人間 の悪業によっておこる猛風)のようにひどいものでし た。 陰陽頭(おんようのかみ=占い等で天皇に仕える役職))が占 いによ ると「いまより百日内に、大臣についての謹慎事(つつ しみごと) があり、更に天下に一大事が起こる。そして天皇・上皇 のお力も 衰微して、兵乱が打ち続く。」とのこと。このことを聞いた平重盛 (たいらのしげもり=清盛の長男=内大臣左大将)は、平家の行く末を 案じているときであり、病気でしたので万事不安に思い、熊野に詣 で、本宮証誠殿(ほんぐうしょうじょうでん= 熊野本宮大社)の前で、 一晩中祈りました。 「自分の諌めを聞かない父清盛、この為、後白河上皇を不愉快に し、平家一門の繁栄のみならず、父清盛の栄華でさえも怪しくなっ て来ています。自分の命を縮めても、来世安穏を約束して下さる熊 野の権現様のお力を戴きたいのです」と。そして都へ帰って程なく 平重盛は、病没し、平家一門の没落も始まりました。
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新宮十郎行家

後白河上皇の第二皇子以仁親王(もちひとしんのう=高倉の宮)は、 源頼政の勧めにより、平氏追討の令旨を全国の源氏に発します。そ の令旨の御使いとして熊野新宮に住む十郎義盛(よしもり)が都に呼 ばれ、名を「行家」と改めたあと東国に出発。源頼朝[源氏の棟梁 であり「行家」の甥に当たる]に令旨を届けます。この新宮十郎行 家の行動を知った熊野別当の湛増は、これを清盛に知らせて、自分 は兵一千を率いて、那智・新宮は源氏の味方であるから打つべきと、 新宮の湊へ出陣します。しかし、これを迎え打つ新宮・那智方は二 千の兵を集めたのです。この戦いは、湛増自身傷を負うほどの負け 戦となりかろうじて本宮に逃げ延びたのです。しかし、この以仁親 王の企ては、清盛の知るところとなり、以仁親王をはじめ源頼政以 下味方した都の侍は殺されたのです。しかしながら、新宮十郎行家 がまいた平家追討の種は、木曾の義仲・源頼朝等の蜂起をうながし たのです。
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文覚上人の修行

文覚上人は、もとは遠藤盛遠(えんどう もりとう)と言い、上西門 院の侍でありました。ある時、発心を起こした遠藤盛遠は出家し文 覚と名前を改めます。文覚は熊野に参り、那智の権現に参篭したの です。そして、「行(ぎょう)」の手始めに、けわしくて有名な那智 の滝にうたれようと、那智の滝に下りていきますが、季節は十二月 の半ば、一番寒い時でした。滝壷に入り首までつかり、不動明王の 呪文を唱えながら、一心に行に勤めますが、あまりの寒さに息絶え ます。すると不動明王の御使矜羯羅(こんがら)・制たか(せいたか) の二童子が現れて、滝壷をけがしてはならないと、文覚を引き上げ て蘇生させます。生き返った文覚は、不動明王の守護により、無事 に二十一日の修行をおえる事が出来たのです。そして文覚は、那智 千日篭もりに始まり、大峰・葛城・富士等すべての行場をまわり、 修行したのです。
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文覚と頼朝の会談

修行を終えた文覚は、京の都に帰り、「飛ぶ鳥も祈り落とす、や いばの修験者」との評判を得、高雄の山中に庵をかまえ住んでいま した。そして、荒れ果てた高雄の神護寺(じんごじ=和気清麻呂の建 立)を修復しようと、勧進帳(かんじんちょう=寄進者の名前を記す もの)を持ち施主を訪ね歩いたのです。ある時後白河院の御所を訪 ね、寄進を願おうとしましたが、御所の警備の侍ともめ事をおこし、 役人にとらえられたのですが、鳥羽上皇の后、美福門院死去の大赦 があり放免されました。しかしこれで大人しくなる文覚ではなく。 「今に、この世の中は乱れて、皆滅びるであろう」と言いながら勧 進をして廻ったので、再び捕らえられてしまい、伊豆に流されます。 伊豆には、源頼朝が流されており、文覚は、頼朝のもとに通い平家 を倒すようしきりに勧めますが、頼朝は大義名分がないと、ことわ ります。それで文覚は、後白河法皇の平家追討の院宣を受けて、頼 朝に届け、決起をうながしたのです。そしてついに頼朝は決心し、 平家追討に立ち上がりました。
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清盛の死

源頼朝・木曾の義仲はじめ、全国各地の源氏が平氏追討の為蜂起 した時、清盛は病に倒れ、日に日に弱っていきます。熱のため、清 盛の身体は熱くなり苦しむ様子を「あまりに熱が高いので、清盛の 寝床に四・五間程近づいただけで、熱くて耐えられなくなり、清盛 の熱を冷まそうと、石の水槽に、冷水で有名な比叡山の千手院の水 を入れ、身体を浸すと、水はすぐに沸き上がって湯になり、柄杓で 水を掛ければ、身体には触らずに、焼け石に水を掛けたように、飛 び散り、たまに当たる水があれば、炎となって燃え上がり、部屋中 に黒煙が充満し、これはまるで、焦熱地獄に迷い込んだようである。 と言っております。そして、ついに熱のため亡くなりました。
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平家都落ち

平清盛が亡くなってからは、平家の威光も一段と落ち、源氏に味 方する者が出てくるようになり、中でも木曾の義仲の勢いが強く、 越後の国守城の四郎長茂(ながもち=平家一門)簡単に負けてしまう のです。この為、平維盛(たいらのこれもり=平清盛の孫)を総大将 に十万余りの軍勢を以て、北陸に向け出陣します。平家命運をかけ たこの戦いも、勇猛果敢な源氏の前に屈し、ついに木曾の義仲のた めに、平家一門は都を追われ、西国に落ちて行くのです。しかし西 国の地での再起を願い、遠く九州に行きますが、源氏に味方する者 多く、やむなく瀬戸内海を東に、屋島の海に船を浮かべました。
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平維盛の出家

屋島の平氏の中にいて、平維盛は都に残した妻子のことを思う余 りに、重景・石童丸・舎人武里とともに、陣を抜け出したのですが、 都には源氏の軍がひしめいており、もし捕まれば生き恥を晒すと、 高野山に登り滝口入道の庵を訪ね、話し込む内に維盛は、この現世 の迷いから逃れたいと、智覚上人を師に、髪を剃り出家したのです 重景・石童丸・武里の三人も同じく出家しようとするのですが、維 盛は武里には、都に残る妻子や、屋島の平氏に事の次第を伝えて欲 しいと、出家を許しませんでした。
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平維盛の熊野詣で

出家した平維盛(たいらのこれもり)は、滝口入道を導師に、山伏 の姿に変え熊野をめざしたのです。途中九十九王子を参拝しながら すすみ、田辺より山中に向かう中辺路を通り、本宮に着いたのです。 そして証誠殿(しょうじょうでん=熊野本宮の中心の社殿)にて拝礼 すると、父重盛の熊野参拝に供した時のことが偲ばれて、感慨にふ けるのです。さらに船に乗り熊野川を下って新宮に着き、熊野速玉 大社に参拝し、神倉・阿須賀をめぐって熊野那智大社に参詣します。
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平維盛の死

熊野三山の参拝も終えた維盛一行は、那智の御山を下り、浜の宮の 前より小舟に乗り、那智の海に漕ぎだしました。そして那智湾の沖 に浮かぶ山成島に着くと、上陸し、松の木を削り[中将維盛(ちゅ うじょう、これもり)、法名浄円(じょうえん)。二十七にて浜の 宮の御前にて入水をはん(遂げる)]と書いて、再び船に乗り沖に 行き、西の方を向き手を合わせ、大声で念仏を唱えながら海に飛び 込んだのです。寿永三年(1184年)旧暦三月二十八日のことで す。

 この維盛の墓が、浜の宮の補陀洛山寺の裏手に、渡海上人の墓と並んで立っています。しかし維盛を哀れに思う人々は、那智湾では入水せずに、更に逃れて、色川の里に隠れ住んだとの話を生んだのです。

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